今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
続々々・極論をいう人を排除しても…(メカAG)
佐々木俊尚は日本のリベラルの主張は極論で、現実への対処能力に欠けるという。それはその通りなんだけど、俺には佐々木俊尚の主張もしばしば同じように見えるんだよね…。
たとえば日本経済の低迷(最近はそうでもないけど)は、終身雇用と年功序列のせいだから、それを廃止すればすべてよくなる、みたいな主張をしている。
でも本気で年功序列をやめるなら、それにかわる評価制度を作らなきゃいけない。いわゆる成果主義になるんだろうけど、これまでいろいろな企業が試みてるけどどれも成功してないよね。
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リベラルの「戦争がなくなれば軍隊もいらなくなる」というのと同じでなんだよね。「成果をきちんと評価できるなら年功序列はいらなくなる」というのは。「それができれば苦労しない」と。
あるいは年功序列に頼ってるから、成果の評価制度が発達しないんだという理屈もあるだろう。でもそれって、軍隊があるから戦争がなくならない、軍隊をなくせば本気で平和に取り組むはずだ、と同じだよね。
何度か書いているけれど、個人で完結している仕事なら成果を評価するのも比較的容易だろう。営業のノルマとか、ライターの原稿料とか、コンサルタントの売上とか。でもチームでやってる仕事は誰がどれだけチームの成果に貢献しているかを評価するのは難しい。というか結局は評価する人間の主観だろう。
だいたい互いに一方が他方の欠点を補いあって全体的にうまく機能しているチームの場合、成果をそれぞれのメンバーにどう還元するかなんて、一意に決定できるとは思えん。
でも「成果主義が実現しないのは経営者の努力が足りない」とか精神論になってしまう。努力だけで簡単に実現できるなら、むしろ経営者は積極的に導入すると思うんだけどね。
諦めずに努力し続ければ平和が実現できるというリベラルの人たちの主張と同じ。努力し続けることに異論はないが、その間の当面の問題をどうするか?という視点が欠如している。
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結局こういうのは仕方ないと思うんだよね。成果主義にしろ国の安全保障にしろ、実際にその問題に取り組んでいる人間でない人間があれこれ口を出せば、どうしても楽観的すぎたり悲観的すぎたりする。
かといって個々の国民があらゆることに精通すべきというのもおかしい。せっかく分業してるのに。そうなると「素人は口を出すな」となるか「専門家の意見を鵜呑みにしろ」となるかぐらいしかない。でもそれは素人の言論を許さないことになる。
だから
1) 素人も意見は自由に言ってもらって結構。
2) しかし意思決定には一切関与させない。
という方針しかないと思うんだけどね。
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それで十分だと思うんだけどねぇ。素人が「社会をよくするため」という名目で浅はかな同調圧力を行使するのが危険なのであって、単なる意見として言うなら害はない。それを、どっかに圧力をかけて「○○の言動は好ましくないから禁止しろ」とか言い出すから始末におえない。
決定に関与できないなら言論の意味がないという人もいるかもしれないけど、そういう人はそもそも言論の価値を分かってないのだから、放っておけばいい。言論の価値はそんなところにあるんじゃない。
決定権と言論を切り離すべき。両者を結びつけるから、「責任ある言論」みたいに、言論を制限することになる。言論はなにを主張するのも自由。差別であろうが他人を侮辱する発言だろうが。それぐらいは我慢すべき。
そして心理的なもの以外の金銭的・具体的な影響(差別で解雇されたとか給料を下げられたとか)のみを取り締まるべき。それは意思決定が伴うものなのだから、意思決定には責任が生じる。そうしないと言論の自由は保証できない。
関連記事:
「続々・極論をいう人を排除しても…」 2014年07月08日 『ガジェット通信』
http://mechag.asks.jp/817669.html
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年07月14日時点のものです。